裁判の概要
 訴状
 第1回、第2回口頭弁論日程

第一審(裁判の概要)

◎2006年3月30日 重慶大爆撃で日本政府を提訴 

日本の中国侵略戦争中、重慶で1938年2月から1943年8月までの5年半にわたって繰り返し空爆で被害を受けた原告40名(重慶市34名、楽山市5名、自貢市1名)は、2006年3月30日、日本政府に対し1人1千万円(総額4億円)の損害賠償と謝罪を求めて提訴した。
 原告側は、戦略爆撃の実態を法廷で明らかにする方針。


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◎第1回口頭弁論

 2006年10月25日(水)午後1時半〜
 東京地方裁判所103号法廷

 原告4名(重慶市)が意見を陳述しました

◆原告 羅漢さん(73歳、男性)
  −1940年7月22日の爆撃で、合川市の自宅にいた父親が死亡

 侵略戦争に反対し、世界平和を熱愛する

1.私は羅漢といいます。本日、私たち重慶大爆撃原告団が日本の東京の裁判所において、日本帝国主義の中国侵略戦争の罪を訴え、死亡した被害者同胞のために恥を雪ぐことは、私どもの60数年来の願いでした。
 私は、1933年湖北省の武漢で生まれ、今年73歳で、重慶大爆撃の生存者であり被害者です。
 1938年、日本軍の侵略が激しくなったために、父母について武漢を離れ、四川の重慶に避難しました。当時重慶は抗戦の陪都〔第二首都〕で、日本軍は重慶を打ち砕いて、中国を滅亡させようとはかりました。しかし重慶には三峡という自然の要害があり、四川は盆地で、周囲は山が取り巻き、日本の陸軍と海軍は攻めることができず、そこで、日本は大量の航空隊を動員し、重慶、四川に対して五年半にわたる「無差別爆撃」をはじめたので、私たち一家はさらに重慶の郊外である合川に移りました。

2.1940年7月22日、日本は百機近い航空機で、3回にわけて、合川に500発余りの爆弾を投下し、合川県城は約7割が爆撃で破壊され、人民の生命財産の損失は悲惨でした。私の父親(羅志強、1907年6月16日生まれ)はこの日の爆撃で亡くなりました。合川が爆撃された日の朝、母(呉理華、1917年11月21日)は、私と妹を連れて友達の家に用事にでかけました(それで被害を逃れられたのです)。その途中で、私たちは、合川城内からの警報を聞きました。続いて日本軍の飛行機の群れが合川の方向へ飛んで行くのが見えました。母は、私と妹を竹林に連れて行き避難させ身体を覆い被せて私たちを護ってくれました。間もなく、ドカン、ドカンという爆弾の爆発音を聞き、合川城内が火の海になったのが見えました。
 爆撃が止み、敵機が去ると、母は、私たち兄弟を友達の家に預け、急いで市街地に戻って行きました。後で私は、母から、父が死んだ爆撃被害の状況を聞きました。母は、戻る途中、川辺付近で、市街地から逃げてきた多くの罹災者を見たそうです。そのとき母は、川岸で、茫然とした姿で手に小包を持って座っていた祖母を見つけました。祖母は、泣きながら、「家が爆撃で壊され、隣りの一家が死亡し、父は爆撃で重傷を負った」ことを母に告げました。父の手のひらは爆弾の破片で潰され、右足は機関銃弾で貫通され、すでに救護隊に病院に送られたとのことでした。母が父をみつけだした時、医者は重傷なので北碚医院で治療しないとならないと言いました。翌日、北碚江蘇医学院に移ると、医者は破傷風だと診断し、もう会話もできない状態で、その日の深夜、病院で亡くなりました。私と妹は、最後に父に会うことさえできませんでした。
 
3.父の職業は、クラブで音楽(クラリネット、バイオリンの演奏)をしていました。父が亡くなった時には、まだ33歳で、私はわずか7歳でした。父が亡くなった後、母は、祖母、叔父(母の弟)および私たち兄弟の面倒をみなければなりませんが、頼るべきところがなく、母は、やむなく人に頼んで15歳の叔父をある印刷工場で少年工として働かせました。また私は歌楽山孤児院に送られました。母親は生活が成り立たないので、祖母と妹を連れてよそに嫁ぎなおしました。
 孤児院での生活条件はとても悪く、三食ともお腹一杯食べられず、肉体労働もしなければなりませんでした。山の上から岸辺まで米や、木板を運びました。子供たちのなかでは営養不良で夜盲症になり、夕方になると目が見えなくなりました。私の子供時代は避難と大爆撃の災難の中で過ごしました。重慶大爆撃によって、私は家を失い、家族もばらばらになりました。この血と涙の家族の歴史は一生忘れられません。
 
4.日本軍国主義の重慶と四川に対する大爆撃は、完全に侵略行行為であり、手に寸鉄も帯びない平和に暮らしている住民に対して、「空中の大虐殺」を行ったのです。ここに、私は大爆撃で殺された父親と六万余りの同胞のために問題をはっきりとさせたいと思います。犠牲者は死んで60数年たっても、しかしまだ瞑目することができないのです。日本軍国主義の中国人民への血の債務は、なんとしても取り戻さねばなりません。それゆえ、私たちは日本政府に対して、中国侵略戦争の罪を負うことを要求します。賠償してもらえないことは民族の恥辱であり、脆弱さのあらわれです。正義の賠償の行動は必ずや中日人民の支持をえて、成功できると信じております。
 どんな戦争でもその被害者はいつも普通の住民たちです。普通の住民にとって戦争は甚だしい災難です。ここで、我々は大きな声で呼びかけます、「戦争を反対し、平和を愛しましょう」。
 私は、世界の永遠の平和のため、天津の劉波と共同で「平和頌」という歌を作りました。
 広い空に白い鳩は飛び、世界の人々は平安を享受する。
 我々の生活は平和で幸せで、愛は永遠で紛争がない。
 この世界の人々は兄弟のように共存し、ともに平和の歌を歌う。
 皆が手をつなぐ大同の世を求め、世界の平和を祈る。
 私は、この歌を創ったとき、「戦争の苦難を経験した人々は、もっとも平和を大切にし、もっとも強く平和を求め、守らなければならない。」と感じました。現在私たちは、平和を維持し、守るために行動しなければなりません。
 最後に、中日人民の永遠の友好が実現されることを祈ります。世界の民衆は団結して平和のために行動しましょう。
                                                  以上

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◆原告 趙茂蓉さん(78歳、女性)
  −1941年8月23日の爆撃で、避難先の磁器口百岩洞入り口で爆弾の破片を顔面に浴び重傷を負う

 私の13歳の顔を傷つけた日本軍の爆撃を告発する

1 私は、1928年8月24日、父趙慶雲と母文本玉の間に生まれました。私は、3番目の子供で、兄弟は兄と姉が1人づつと、妹が1人いました。
 家が大変貧しかったので、私は、9歳の時から、自宅のあった磁器口の紡績工場で働いていました。

2 私は、13歳になる直前の1941年8月23日に、日本軍の飛行機が磁器口に日本軍の飛行機が落とした爆弾で、顔の右側に重傷を負いました。
 その日、私は、いつもの様に紡績工場で働いていました。突然、空襲警報が鳴りましたので、私は、工場の同僚の王成芳さんや張昌模さんなど一緒に空襲を避けるため、磁器口百岩洞という防空洞に向かって走りました。
 丁度、百岩洞の近くに着いたころ、日本軍の飛行機が爆撃を始めました。私たちが目指していた防空洞は、すでに避難してきた人で一杯になっていました。まだ13歳で力も弱かった私は、防空洞の中に入ることはできませんでした。こうして私は、防空洞の出入り口のところに留まらざるを得ませんでしたが、そこに日本軍の爆弾が投下されました。その爆弾の破片が四方に飛び散った際、その破片の一つが私の右頬に深く突き刺さりました。
 爆弾が破裂したとき、もうもうと煙や霧が立ちこめ、私は、天も地もまっ暗になったように感じました。私は、夢中で自分の手荷物をつかんで、押し合う人の群れに混じって走りました。すると突然、誰かが私の幼名(趙家秀)を呼んで、「趙家秀、どうしてお前は人の頭なんかぶら提げているんだい?」と叫んだのが聞こえました。
 そう言われて、私は、驚いて手でつかんでいた「手荷物」を見ました。掴んでいた物を見た瞬間、私は、「頭だ!」と叫び、そのまま気絶してしまいました。

3 後で家族から聞いたのですが、私の家族は、空襲が終わった後、あちこち私を捜したそうです。夕方になって、兄が、やっと死体の折り重なっている山の中から私を見つけだしました。
 兄は、滑竿という担架を探してきて、その担架に私を乗せて、歌楽山にある寛人医院まで、ゆっくりゆっくりと私を担いで運んでくれました。
 病院の医師は、「あなたの妹は日本軍の爆撃で負傷したのだから、地元の保甲長から日本軍の爆撃で負傷したことの証明をもらって来れば、病院側は治療費や入院料などは免除されますよ」と教えてくれました。
 そこで兄が当時の保長呉慶生から証明書をもらってきてくれ、その証明書のおかげで、私は、ようやく病院に入院できるようになりました。
 私は、数ヶ月間、入院していました。その入院期間中、大きな傷を負った顔の右側の手術を受け続けました。治療を受けている間も頬の部分が腐ってきて蛆虫が湧きだし、当初の半月ほどは水も飲めない状態でした。

 4 私が負傷した数日後にも再び日本軍の飛行機が重慶を爆撃しました。こうして重慶の一般市民は、再び空襲の被害を受けました。この日の空襲で、私の家も爆撃を受け、さらに火事の火が燃え移り全部焼失してしまいました。私の家族は、帰る家もなくなり、街頭で野宿するしかありませんでした。私は、数ヶ月間、病院に入院し、顔の傷の状態が幾分よくなってから退院しました。火事で家が無くなっていたので、私は、他人の家に一時的に住まわせてもらうなど、あちこちを流離うような生活を送らざるを得ませんでした。
 このように住まいが無くなったことで生活の環境は一変してしまいました。

5 私の場合、空襲で右頬の部分に大きな傷を受けましたが、この顔の傷は私の生活と精神に大きな障害をもたらしました。顔の包帯を外して、初めて顔の右頬の大きな傷跡を見たとき、私は強いショックを受けました。13歳の女の子だった私にとって、顔に大きな傷跡が残ったことの苦しみは本当に耐え難いものでした。何日も何日も泣き続けたことは、今でも忘れることはできません。
 私は、仕事ができるほど回復すると、再び工場で働くようになったのですが、職場の同僚から、顔の傷の事を言われる事がしばしばありました。例えば、私は、同僚からしばしば「半面美人」などとからかわれました。このようなとき、私は大変精神的に苦しい思いをしました。
 このような嫌な思いを何遍も経験するうちに、私は、何時の頃からか、自然と顔の傷の部分を自分の髪の毛で隠すことが癖になってしまいました。残念ながら性格の面でも暗い感じになったように思います。

6 空襲で受けた傷は、私の婚姻や家庭生活にも多大な苦痛をもたらしました。私は、空襲によって被った傷のために、しばしば他人から蔑視され、また侮辱を受けてきました。私だけでなく、私の子供までひどいいじめにあいました。さらに私は、顔の傷のほかに、空襲で聴覚機能も失いました。このため、私は、大きな声で話してもらわないと、人の話を聞き取ることができません。しかも常に頭痛がします。
             
7 日本軍国主義は、重慶に対して残虐な空襲を5年間以上も繰り返し強行し、一般市民に甚大な被害を与えました。私自身も、爆撃以来現在まで、上に述べたような言葉では言い表せないほどの大変な苦しみを味わってきました。精神的な傷は肉体的な傷をはるかに越えるものでした。
 爆撃から60年以上経ちましたが、日本政府は未だに私たち重慶大爆撃の被害者に謝罪したことがありません。重慶大爆撃のような無差別爆撃は、罪のない一般住民の命を奪い、家庭を破壊する残虐な行為であり、絶対に許されない行為だと思います。私は、一日も早く、日本政府が重慶大爆撃の被害者に心から謝罪し、適切に賠償を行うことを望みます。
                                                  以上

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◆原告 万泰全さん(74歳、男性)
  −1940年6月24日の爆撃で、避難先の北碚公園付近の防空洞前で左足切断の重傷を負う

 私の左足を奪った重慶市北碚への日本軍の爆撃

1 私は、重慶大爆撃被害者の万泰全で、竹細工の元職人です。1932年6月18日に重慶市北碚で生れました。父は私が小さい時になくなり、私と母で暮らし、母が日用雑貨品を販売して生活をしていました。8歳のときに日本軍の爆撃で傷を負わされたのです。

2 1940年6月24日午前中、私は母と一緒に、河の岸辺で雑貨を売っていました。正午ごろに空襲警報が鳴りました。
 そのため、私と母は防空壕の入り口に駆けていって避難しようとしました。日本の飛行機がやってきて、私たちは防空壕の中に入ろうとしましたが、防空壕は人が一杯で中に入ることが出来ませんでした。この時、機銃掃射の音が聞こえ、ついで爆弾が投下され、私は人事不省になり、昏倒しました。気がついたとき、防空壕の入り口にたくさんの死体があるのをみました。母は私を死体の山から引っぱり出しましたが、私の左足はすでにちぎれていたのです。母は私を道の端に抱えていき、医院の救急隊員が来て、担架で私を北碚江蘇医院に運んで行きました。その晩の12時に、手術をうけましたが、私の左足は大腿部から切断され、2ヶ月治療を受けてようやく退院できました。

3 当時、私はわずか8歳で、左足を失ってしまいました。杖をついてしか歩けず、生活できなくなりました。母は、私を世話しなければならず、日用雑貨店も経営できなくなり、私を連れて手間賃稼ぎの雑用をするしかありませんでした。
 1950年、18歳の時、竹細工の弟子に入りました。見習いを3年間、臨時雇いを3年間して、1956年に江北竹器杜に入り、ようやく給与を貰えるようになりました。
1961年に結婚し、2人の子に恵まれました。1982年に退職しました。現在は、2人の息子と一緒に住んでいます。
 現在でも、私は、左足に痙攣が起きるなど痛みに耐え難く、夜も眠れず、高カルシウム薬を常時飲んでいます。

4 日本の重慶大爆撃は、私に一生続く大きな身体的精神的傷害を与えました。そのため私は、非人道的な生活を強いられ、想像し難い苦痛を被ってきました。
 日本政府は、侵略の責任を認め、私達の精神的経済的損失を償うべきです。
                                                 以上

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◆原告 危昭平さん(74歳、女性)
  −1940年7月5日の爆撃で、基江県の自宅にいた父親と伯母が死亡

 私の父を殺した重慶大爆撃を許さない

1 私は危昭平と申します。1932年4月29日生れで、今年74歳になります。私は、重慶市郊外の?江県に生まれ、現在もそこに住んでいます。
 私の父危永庄は、?江県政府の職員でしたが、1940年7月5日の日本軍による?江爆撃で殺されました。当時、父は41歳でした。

2 私の実母は私が3歳の時に病死しました。その後、父は再婚しましたので、父が殺された当時、私は、父と新しい母の蔡澤碧と一緒に?江県城の北街に住んでいました。
 私には15歳ほど歳が離れている兄危昭文がいましたが、すでに家を出て麻子橋小学校(現在の登瀛小学校)で教師をしていました。
 父が爆撃で死亡したとき、私は小学2年生で、ちょうど夏休みでしたので、母の実家のある北渡郷に遊びに行っていました。7月5日午後、遠くの方で爆発音が聞こえたのでそちらの方向を見ると、空が真っ赤になっていました。8歳の私でも、中国に戦争をしかけている日本軍の爆撃だとわかりました。
 私は、?江県城の両親の安否がとても心配でした。しかし祖母(母の
母)は、日本軍の飛行機が再び?江県城を爆撃することを心配し、私が両親の元へ行くことを許しませんでした。祖母は、両親の様子を調べるために蔡九誠という従兄弟を?江県城へ行かせました。その夜、従兄弟は、爆撃で死亡した叔母の蔡王氏(母方の伯父の妻)の遺体を運んで戻ってきました。その従兄弟から、この日の日本軍の爆撃で、私の父が殺され、母も重症を負ったことを聞き、私は目の前が真っ暗になるほどの強いショックを受けました。
 一方、兄は、7月5日の?江爆撃があった翌日、従兄弟の危迪(父方の叔父の息子)と?江県城へ戻りました。私は、県城に戻った兄のことも心配していましたが、爆撃から10日後、ようやく兄と会うことができました。私は、兄から、母が重傷で南山坪の病院で怪我の治療を受けているとを聞きました。間もなく兄と私は、一緒に父の実家のある東渓鎮に行きました。

3 私は、後から東渓鎮にやってきた母から、爆撃を受けた?江県城の悲惨な状況を教えてもらいました。以下は、私が聞いた爆撃の様子です。
 7月5日の午後、父は、来客の友人を見送って家に戻ってきた直後、日本軍の飛行機の爆撃を受けました。父は、自宅のリビング・ルームに居たところを爆弾の直撃を受けて死亡しました。父の体はバラバラになってしまい、遺体は見つからなかったそうです。そのため父は埋葬もされませんでした。
母も自宅の中にいましたが、爆弾の破片が右足の太ももに突き刺さり、また、ふくらはぎは爆撃により一部肉がひきちぎられるという重傷でした。太ももの破片は母が亡くなるまで体から取り出せませんでした。
 日本軍の爆撃によって、全部で約200平方メートルの広さがあった3階建の自宅は半壊し、さらに、自宅の一部で母が経営していた旅館も全焼してしまいました。
 爆撃後の県城には至るところに引き取り手のない死体が散乱していました。私の家の周辺では100人余りの死者が出ましたが、その中の20人余りの死体は親族に引き取られましたが、残った90人余りの死体は引き取られなかったそうです。残った死体は、その場に掘られた3つの穴にまとめて埋葬されました。

4 このように?江県城の自宅が爆撃で破壊されたため、私と母と兄は、父の実家のある東渓鎮で生活することになりました。しかし、母が爆撃の後遺症で仕事をすることができなかったため、私の家族の生活は非常に貧しい状態でした。家では、子供の私のために冬用の厚い服を買うことも出来ず、親友から古着を譲ってもらったこともありました。現金収入がないので食べるものにも事欠く有様で、母の兄弟の家から食糧の援助を受けて、最低水準の生活を続ける状態でした。
 こういう生活状態でしたので、私は、小学校は続けて通うことができましたが、中学校には叔父(母方)や叔母(父方)が援助してくれて、ようやく進学することができました。中学校で学業を続けるために、家で借金を重ね、中学はどうにか卒業することができました。しかし、高校には、いったん進学はしましたが、お金が続かなくなり、結局、途中で退学せざるをえませんでした。

5 私は、高校を中退した後、新中国になった?江県の人民政府職員や裁判所職員を勤め、その後30年間?江県漢方薬会社に勤めて、1985年に定年退職しました。
 この間に、私は結婚して家庭をもち4人の子供に恵まれましたが、日本軍の爆撃のことを忘れたことはありません。爆撃からすでに66年経ちましたが、私は、常に爆撃で殺された父や伯母(母方の伯父の妻)のことや重傷を負った母のことを思い出します。とくに、爆撃で体がばらばらにされ遺体すら残らなかった父のことを思い出すと、今でも涙が出てきます。
 何の罪もない?江県の一般住民を殺した日本軍飛行機の爆撃は絶対に許せません。日本政府が無差別爆撃を謝罪しないために、癒されない父の魂は今もさまよい続けています。

6 私は、日本軍国主義が罪のない?江県の一般住民に加えた無差別爆撃を許すことができません。
私は、日本軍の侵略戦争が中国人民に加えた残虐な無差別爆撃を告発して、これからの戦争を阻止し、世界の平和を守るため、本法廷で重慶大爆撃で受けた私の家族の災難について陳述しました。
 重慶大爆撃に対する法的責任をとらない日本政府は、世界中から信頼されないでしょう。日本政府は、すべての無差別爆撃の被害者に一刻も早く、謝罪と賠償を行うべきです。重慶大爆撃の被害者は、日本政府が誠意を示すのかどうかを見守っています。重慶市民にとって爆撃被害のことは決して過去のことではなく、現在も続いている出来事なのです。
 最後に、私たち原告が重慶大爆撃の被害について裁判を提訴したのは、真の日中友好を一刻も早く実現するためであることを、日本の尊敬する裁判官の方々に心から訴えて、私の発言を終わります。
                                                  以上

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 弁護団が訴状要旨を陳述しました

●原告ら訴訟代理人 弁護士 土屋 公献

1.本件の原告40名は、いずれも日本軍による重慶大爆撃被害者、すなわち、重慶大爆撃によって、父母兄弟姉妹などの親族を殺害され、または自らが重傷を負った者たちである。日本軍による重慶大爆撃は、一般住民の殺戮を狙った無差別爆撃であり、当時の国際法に違反した残虐で非人道的な戦争犯罪である。しかし、日本政府は、被害者らに対して、60数年間、一度も謝罪していない。
 原告らが本件訴訟で求めていることは、法を実行し、正義を実現することである。すなわち、重慶大爆撃がまぎれもない戦争犯罪であることを判決という法的判断によって明らかにさせ、かつ爆撃被害者への謝罪と賠償を実現させることである。

2.重慶大爆撃の問題はまだ終わっていない。本日の重慶市の原告ら4人の陳述に表れているが、60数年を経ても、爆撃被害者らは激しく、強い無念さと憤りを持っている。現在も爆撃被害者が受けた心の傷は痛み続けている。まさに今も日本の加害行為は続いているのである。
 この問題における裁判所の役割は重大である。裁判所が、重慶大爆撃が国際法に違反した無差別爆撃であることを歴史的事実として認定し、日本政府に謝罪と賠償を命ずることによって、初めて原告らの無念を晴らし、死者の霊を慰め、奪われた尊厳を取り戻すことができる。
 又、そうすることによって、日本の戦争責任を果させ、中国をはじめとするアジアの国々の信頼を回復し、日本と中国、アジア諸国民が心の底から手を取り合える友好関係を復活して、恒久平和を築くことができるのである。
 裁判所は、公正に審理を進め、判決の齎らす政治的、外交的、経済的影響に意を用いることなく、ひたすら純粋に正義の実現という本来の使命を果たすべきものと考える。人類普遍の正義は一つであり、世界はこれを求めているのである。

3.日本人は、従来、広島・長崎の原爆や東京・大阪・名古屋など各都市の大空襲の被害等をはじめとする自国民の被害を憶い起こすことで、戦争の悲惨さと平和の尊さを訴えて来た。しかし、それだけでは真の意味で平和を誓うことにはならない。自国の犯した加害の事実を無視することは明らかに不誠実であり、他国から共感を得ることはできず、況んや「名誉ある地位」を与えられることなどあり得ない。
 一般住民を無差別爆撃で虐殺した事例としてドイツによるスペインのゲルニカ空爆が有名であるが、実際には、重慶大爆撃は、その規模の大きさと執拗さにおいてゲルニカを逢かに凌ぐ超弩級の戦略的無差別爆撃であった。
 しかも重慶大爆撃は、その後のイギリスによるドレスデン空爆を導き、更に数年後のアメリカによる日本各地の無差別大爆撃と原爆投下へと引継がれる戦略思想の先駆をなした無差別爆撃だった。
 世界史的な視野でみれば、重慶大爆撃は歴史上初めての大量殺戮を狙った無差別爆撃であったが、このような国際法違反の無差別爆撃が一度も裁かれなかったために、第二次世界大戦後も、朝鮮戦争、ベトナム空爆を経て、21世紀のアフガニスタン・イラク戦争へと及ぶに至ったのである。
 この無辜の民を大量に殺戮する戦略爆撃の思想を断とうとする立場に立つとき、重慶大爆撃訴訟が決して単一の過去の清算だけに止まらない、世界史的な視野を含む極めて重要な意味を持っていることは明らかである。

4.被告の国は、従来、戦後補償を求める幾多の訴訟事件において、判で押したように、国家無答責、伝統的な国際法解釈に立った個人請求の排除、さらにサンフランシスコ平和条約をはじめとする請求権に関する諸条約、国内法たる時効の除斥期間等を根拠にして、原告被害者らの請求を認めようとしない。本件でも答弁書で全く同様の姿勢をとっている。
 他方、日本の裁判所も、一部下級審を除いて、日本政府の立場を擁護し、同様の法理のもとに、頑なに国の責任を回避させて来た。
 しかし、いわゆるパナイ号事件の実例を見ても既に戦時中、国は「個人の損害」を賠償しており、国家無答責の理論は国際的には崩壊していたのである。又、加害国に対する個人の訴権は、現在においては堂々と認められている以上、対象は過去の事案であっても、現在の訴訟でこれを排除するいわれはなく、更に、国家間の合意は国民の個人としての私権を奪うことは出来ない。
 さらに時効・除斥期間についても、それぞれの国が自ら定めた国内法で外国人からの請求を却けることは理に反する。
 総じて、正義公平の基本原則に立つならば、これらすべての姑息な法理論は、いずれも排斥されて然るべきものである。

5.前田哲男氏が紹介している通り、ドイツ政府は、ゲルニカ空爆から60年後の1997年3月にヘルツォーク大統領が、ゲルニカ市と市民に対し、「この残虐な行為の犠牲者は、非常な苦痛にさらされた。わたしたちはドイツ空軍による爆撃とそれが招来した恐怖をけっして繰り返さない。いま、両国民の間の和解と将来の平和を呼びかける」と謝罪した。また、ドレスデンを壊滅させたイギリスは、2000年の「空襲55周年記念式典」にあたり、エリザベス女王の名代ケント公を派遣し、謝罪の意を示すと同時に破壊された聖母教会の再建費用負担を申し出た。
 日本政府は、重慶大爆撃は関して、まさにこれらドイツやイギリスが爆撃被害者に謝罪した事例に学ぶべきである。
 日本政府だけが隠蔽体質を保ち続け、原爆や空襲など自国の被害は唱えても、国際法違反の加害行為には頬かむりするという自己中心姿勢に終始している。この鉄面皮ともいうべき日本政府の姿勢に対し、良心ある日本人は強い憤りをおぼえると同時に、恥ずかしさに堪えないところである。
 重ねて裁判所に対し、重慶大爆撃の被害者に対する謝罪と賠償という正義の実現を求める所以である。
                                                  以上

●原告ら訴訟代理人 弁護士 小野坂 弘

1 われわれ日本人は空爆・空襲と言うと、自分たちはアメリカによる空襲の被害者だと。確かに日本人は広島・長崎への原爆の被害者であり、日本は世界で唯一の被爆国であると思う。これらは事実ではあるが、これらの発言が日本国及び日本人の「被害者」としての面だけを主張しているものであるとすれば、それは世界には受け容れられないであろう。一例を挙げる。わが国の歴史教科書において、中国に対する「侵略」と言わずに、「進攻」という用語を使っていたことに対して、中国その他のアジア諸国と国民が激しい抗議を行った時のことである。香港のテレビ局がその時に制作したテレビ番組に「血涙鉄証」と題するものがあり、新潟の市民団体の人間が現地で入手して持って帰ったものを代理人は見たことがある。この題名は「血と涙で贖った鉄のように確かな証拠」という意味である。この番組の最後は広島の原爆投下後のきのこ雲であり、その前のシーンは東京空襲の場面である。これらのシーンはまさに、日本人被害者説の核心部分である。これらのシーンの前は、本件の重慶大爆撃なのである。そこに「お前たち日本人は『聖戦』と言って、こんなことをやったではないか」と言うナレーションが重なり、日本人が東京空襲や広島・長崎の原爆投下ばかりを言うことに反発している。「被害者面をするな」という訳である。さすがに、口では「ざまあみろ」とは言わないけれども、そのようなニューアンスなのである。

2 1937年のゲルニカ爆撃はピカソの絵によって知られている。ゲルニカは確かにナチスによる無防備な町の無差別爆撃ではあったが、本格的な無防備都市の無差別爆撃は1938年から始まる本件の重慶大爆撃なのである。それは、それまでの軍事目標空爆主義を止めて、市民に対する大規模な無差別殺戮によって、敵国民の戦意の喪失を狙う「戦略爆撃」の始まりを告げるものであった。

3 しかも、ドイツはゲルニカ爆撃に対して戦後、正式に謝罪しているが、わが国はだんまりを決め込んで、謝罪どころか、何もしていないのである。国際常識と国際世論に対して、余りにも無神経な対応だと言わなければならない。このようなことを続けていながら、国連安保理の常任理事国になど成れるはずがない。いまや、日本政府は国連人権委員会の「常任」被告なのである。たとえば、中国人の強制連行・強制労働事件で「国家無答責」だとか、被害者の個人的請求権は放棄されているとか、既に時効・除斥で請求権は失効していると国は主張して来たのだし、本件の答弁書においても相変わらず、同じことを主張しているけれども、何時まで言い続ける心算なのであろうか。そのような対応は、国連人権委員会の討議に見られるように、顰蹙を買うだけであり、決して尊敬を勝ち取ることにはならない。
 最近の水俣病最高裁判決を初めとして、行政の責任を問う判決が出されているが、せめて裁判所だけは人権と正義の砦として、公正な判決をされるように強く望むものである。
                                                 以上

●原告ら訴訟代理人 弁護士 田代 博之

 私が重慶大爆撃事件訴訟弁護団に遅れ馳せながら参加した代理人のひとりです。私がこの訴訟に参加した発端と契機は2つあります。

1. 一つめの理由。
 1938年からはじまった重慶大爆撃事件のいわば前哨戦として日本軍は1937年から中国に対する本格的な軍事的侵攻を展開しはじめました。それ以前の日本政府の対応は、1936年の満州でのカイライ政権づくりをめざした大陸侵攻に続いて、華北に対する軍事的抑圧を強めて来ました。政府は中国への侵略を合理化するために「対支応徴」などの宣伝文句を使い又、他方では、中国人民に対する露骨な民族差別の呼び名として「チャンコロ」などという侮蔑にみちた思想宣伝をして、日本民族の優越感を鼓吹、日本人民を中国への対外侵略に総動員しました。
 この段階での日本軍の戦略の基本は、中国沿岸部の重要都市・抗州・南昌からはじまって南京に至る都市を急襲する爆撃戦の展開でした。その後は、上海・広州、そして蘇州・揚州の都市を爆撃、それは、長崎県大村基地や、台湾の台北基地、さらには済州島の各基地や空母からの発進でした。
このように日本軍による中国沿海地帯へのじゅうだん爆撃は、首都南京における蒋介石政権を降伏させる意図のもとに敢行されたものです。
 この結果、蒋介石の南京政権は早くも1937年12月には重慶を臨時首都として抗日戦を持続させていました。本件で日本の皇軍によって敢行された重慶大爆撃は、空爆という空からの住民虐殺、すなわち戦略爆撃を強行することによって、いっきょに中国人民に厭戦気分を触発させ、日中戦争の終結をもくろんだものとされています。それは1938年から1943年に至る5年有半にわたるものでした。
 ところで私が主張したいのは、訴状20ページで「(2)日本軍の重慶大爆撃以前の中国爆撃」という項目について、若干の補充を試みたいことです。すなわち、中国沿岸部の重要諸都市への日本軍による爆撃は、重慶大爆撃の前段階として空爆による戦略爆撃がきわめて短期間に集中して行われたことであり、そこで奪取した航空基地(港国・南京など)を利用して日本の重爆撃機が奥地重慶大爆撃を敢行したという戦略的構図であったということです。
 そして、私がこの弁護団に参加した理由は、中国への軍事的侵攻の初期の時点で、重慶大爆撃のいわば橋頭堡を築いた沿岸部への戦略爆撃には、戦前、浜松に設けられた飛行第7連隊からの重爆撃機隊が多数加担していたということを明らかにしたい、という思いにあります。とりわけ1933年に日本でははじめて重爆撃機を操縦する浜松陸軍飛行学校が設けられ、ここで訓練教育を受けたパイロットたちが、三菱重工業で製造された7式重爆機を操縦して、中国沿岸部への戦略爆撃を敢行したという歴史的原罪があります。そして、実に重要なことはこれらの重爆撃機が、東支那海を渡って、中国沿岸部の上海や南京港国など重要都市に空爆の集中打を浴びせ、ひいて重慶大爆撃を可能ならしめたという事態を直視するとき、加害国家の国民として、この歴史的原罪を私は到底看過・追認することは出来ません。
 当時、「渡洋爆撃の敢行」という事態は、帝国日本の軍事史のなかでも、空前の壮挙として皇軍によって称揚されました。
 毎日のラジオ放送は軍艦マーチによる好戦気分を煽り、新聞報道は連日トップ記事で渡洋爆撃の戦果を報道した事柄を、私は当時小学2年生の少国民といわれた時代の記憶として、今も脳視にとどめています。

2.次に二つの理由。
 私は2003年7月に中国の重慶市をはじめて訪問。その際、少国民時代、渡洋爆撃の「戦果」として重慶への空爆・戦略爆撃が行われた結果、重慶市民に加えられた住民虐殺・荒廃した重慶の当時の被災地を見学したことがあります。 そのなかで私が発見したその遺蹟は、市内中心部の繁華街の一角に、比較的規模の大きな慰霊塔が建立され、その地下室には、爆撃投下により散乱した多数の遺体の群れを写した現場写真が生々しく、そしてところ狭しと四方に展示されていたこと。そして、焼香台には、絶ゆることのない中国人民の追悼の煙りがゆらいでいたことを想起します。
 このことは、訴状記載の凄惨な被害の実態に鑑みるとき、私は加害国家日本の市民のひとりとして、胸をかきむしられる痛恨の思いでした。

3. さらに理由を付加します。
 2006年8月、私は重慶大爆撃事件訪中団の1メンバーとして、最大被害都市地重慶と、その周辺の被爆都市楽山、成都など訪問し、日本軍の空爆にさらされた今尚残る現地と遺族・被害者たちからの60余年前の被爆の実相を調査して参りました。
 片足を爆弾によって奪われた老人、破片が顔面に突き刺さって今日まで後遺症のため人生の破綻を余儀なくされた被害女性、両親や子供、家族・親族らが爆撃被害に出会って爆死させられ、家も焼かれ住むに家なく、孤児院に収容されたなど、又被災者たちは、日本の政府によって60余年も謝罪はおろか、被害の賠償をされることもなく放置され、生き地獄の生活を長く余儀なくされて来たことに痛憤と悲しみの嗚咽・号泣の涙に明け暮れ、全身をふるわせて加害者日本政府を糾弾しています。私は彼らの気持ちに応えるためにも原告弁護団に参加したのです。

4.裁判長
 被告国は、訴状請求原因に対する原告らの戦争被害の実相についてはなんら応答することなく、他方、加害責任は法律上存在しないなどとして、この裁判に対抗しようとしています。 
 しかし、非人道的戦争犯罪に該当する加害の事実と、原告ら多数の被害の実相を直視することなく、「法律上加害責任はない」などとする被告国の対応は、無責任きわまる遁辞というほかはありません。
 このような被告国の信義と誠実さを没却した対応姿勢は、天人ともに断じて許されるものではありません。
 貴裁判所が、日本がもたらした戦争による原告らへの重大な人権回復に向けて、被害の実態と責任の所在を明確にされること、 そして戦後の国際的人権保障体制の確立と日本国憲法に依拠した戦後補償処理を当審において毅然として貫かれることを切に念願してやみません。
                                                  以上



◎第2回口頭弁論

 2007年1月24日(水)午後1時半〜
 東京地方裁判所103号法廷
 原告(楽山市)3名の意見陳述

 大法廷を埋めつくす傍聴をぜひお願いいたします。