〈第1回公開学習講座「重慶大爆撃」―戦略爆撃の思想を問う―講演録〉

日本軍機による中国・重慶に対する空爆の歴史的検討                                                                

前田哲男(軍事ジャーナリスト、重慶大爆撃の被害者と連帯する会・東京代表)

 

 重慶爆撃裁判が持つ歴史的な沿革ないし全体的な輪郭について述べてみたいと思います。

 先ほど土屋公献弁護士が言及された、中国における日本の非人道的な戦争犯罪

に関して、私たちは、例え

ば南京大虐殺に関し、731部隊に関し、戦場での毒ガス使用に関し、ある程度のことを知っております。

 しかし、重慶爆撃という日中戦争の中における残虐な行為、国際法に違反し都市住民を無差別に爆撃する行為に関しては、私たちはほとんど情報を持ち合わせていません。これまで語られたこともあまりありません。

 そこで、この裁判がこれから進んでいく中で、私たちはどれほど事実を共有するかということもまた大切なことだろうと思います。学びながら闘い、闘いながら学ぶということが求められるのだろうと思います。その意味でこうした公開講座をこれから何度も開いていきたいというふうに考えています。今日はその第1回ということでありますので、全体的な輪郭についてお話をしてみたいと思います。

 私は、紹介していただきましたようにジャーナリストです。重慶爆撃ということに関して関心を持つようになったのは、もう30年ぐらい前になります。当時、ミクロネシアでビキニ周辺の核の被害者、先住民被害者を調べる聞き取りをするために南の海を回っている中で、このような超越的な空からの爆発、爆撃が思想としてどういうふうに生成され発展してきたのだろうか。爆弾としての核爆弾の製造記録は分かる。ナパーム弾も分かる。しかし、核やナパームを使う思想はどのように生成し発展してきたのだろうか、という疑問がわきました。

 考えているうちに、ゲルニカが姿を現し、重慶という地名が浮かんできました。本格的に調べ始めたのは20年前の1986年からです。いくつか本を書いたりまとめたりしてきたのですが、今回は裁判と同時進行しながら、この重慶爆撃の持つ意味を1人でも多くの日本人に知ってもらいたいと思っています。

 それは重慶の思想が清算されていない、日本人の中で謝罪と補償が行われていないという点のみでなく、今日もイラクで同じような爆撃が行われている。昨日もアフガニスタンで同じような爆撃が行われた。かつてはベトナムでも行われた。朝鮮でも行われた。コソボでも行われた。つまり、重慶の思想はまだ生き残っている。戦争の長い20世紀は終わっていないということを強調することも大切な視点だろうと思います。

 閉じた過去の問題ではない。今もなお続いている戦争悪として重慶を記憶し世界に広げていくということも私たちの会の目的の1つであろうという問題意識を持ちながらお話を進めてまいります。

 戦争にとって20世紀とは何であったか?        

 20世紀は戦争の世紀という言い方をされます。革命戦争の世紀、世界戦争の世紀、民族解放戦争の世紀、という他の世紀に無い特徴がすぐに思い浮かんできます。さらに核兵器の登場という大きな特徴もあるでしょう。同時に、私は、空中爆撃の世紀であったという「20世紀戦争」の特徴を指摘したいと思います。

 それまでの戦争に無かった動力、具体的には発動機、エンジンです。エンジンがキャタピラと結びついて戦車となり、エンジンがタービンを回して潜水艦、鋼鉄艦を生み、さらにエンジンがプロペラを回して航空機を生み出しました。それまで馬力、馬の力によって換算されていた戦争の動力単位が、一挙にエンジン単位に、これも馬力、ホースパワーという言葉に換算される発動機の力に変わった。この技術革命が戦争のあり方を根本的に変えたと思います。

 その結果、戦争とは戦場で敵味方の兵士同士が騎士道や武士道というルールに従って戦うというあり方が変わった。戦争―戦場―兵士という固定的な関係が消滅し、都市、後方、あるいは銃後という言葉で表されるような、それまで戦争と縁の無かった地域が戦禍にさらされることになりました。同時に、そこには「殺戮関係における脱身体化」――ややこしい言葉を使いましたが、それまでの戦争に無かった大きな距離が生まれました。飛行機から爆弾を落とす操縦士には地上にいる人間は見えません。制服を着た兵士であるのか、男であるのか、子供であるのか、それすら見定めがつかない。敵意を示しているのか、降伏をしたがっているのかも分からない。そういう所に爆弾は落ちていく。

 すなわち、殺される者と殺す者との距離の拡大。関係性の消滅。それが、20世紀戦争、空からの戦争の大きな特徴であろうと思います。目に見えない殺戮、知覚されない虐殺、というような形の戦争が現れたのは、20世紀戦争の特徴です。

 19世紀戦争までの悲惨さは、例えば、ゴヤが「戦争の惨禍」という100枚近い銅版画の連作で、これでもかこれでもかというぐらい生々しい筆致で戦争のもたらす悲惨な有様を描いていますが、そこでは両者は向き合い、武器が相手に突き刺さり、吊るされ、拷問され、というような肉体の接触があります。

 しかし、空からの戦争、20世紀戦争の特質の1つである空中爆撃には、そうした人間関係が一切ない。肉の焦げる臭いも悲鳴も何もないような殺戮の形。工業期における虐殺という言い方をしてもいいかもしれません。そのような新しい戦争のあり方が始まった。

 重慶爆撃とは、そのような空からの戦争の始まりの部分に位置します。意図的、組織的、長期に渡る、という意味において、重慶爆撃は20世紀戦争の空中爆撃の思想を「戦政略爆撃」という公式名称に公然と掲げた初めての例です。それ以前の無差別爆撃として知られるゲルニカ爆撃は戦略爆撃の定義でいうと、そこから外れます。その意味でも重慶爆撃が切り開いた犯罪性、残虐さは強調してもしすぎることはないだろうと思います。

 それにも関わらず、重慶爆撃が知られていない。何故なのだろうか。あまりにも急速に重慶における手法が模倣され拡大され、その被害は恐るべきものとなって、ごく数年間、5、6年のうちに全世界に広がった。したがって、重慶が発信したその非人道性、残虐な数字はごく短い間しか有効性を持たなかった。

 もっと酷い例が各地に、ハンブルクに、ドレスデンに、東京に、横浜、神戸に起きたがゆえに、重慶から始まった歴史的意味は、たちまちに戦略爆撃の土埃の中に隠されてしまった。それが生み出した莫大な数字の中に埋没してしまったというふうに言っていいのかもしれません。そして、私たちは重慶を忘れてしまった。忘れることにしたと言うべきでしょう。語ることをしませんでした。何故忘れたのかについて、いくつか理由があると思います。それについて後で少し触れます。

 しかし、そうは言っても重慶の持つ歴史的な意味、戦争における重要な転機としての意味、戦争と人間の関係における重大な犯罪的な意味は決して無視されていいわけでもありませんし、その後起こった事によって正当化されたり、また小さなものであったりというふうに見なされるべきではないと思います。先程も申しました通り、2重の意味で重慶爆撃の歴史的な意味は今も失われておらず問われているのだと思います。

 1つは、我々が謝罪も補償もしていないという点において。もう1つは、同じ思想が今もアメリカの地域戦争において試みられているという現在進行形の戦争悪として。その二重の意味において、私たちは重慶を振り返らなければならないし、そこの持つ普遍的な意味を知らなければならないだろうと思います。

 航空機の出現が戦争にもたらしたもの

 そうした20世紀における戦争の展開、および空からの爆撃という新たな手法をふまえた上で、では、航空機が戦争にどのような影響をもたらし、それが日中戦争の中で重慶爆撃にどのようにつながっていったかについて見ていきたいと思います。

 ご承知の通り、ライト兄弟が初めてエンジン付きの飛行機で飛行したのは1903年のことです。この飛行機は、たちまちのうちに兵器として採用され、1914年に始まる第1次世界大戦の中で戦場に登場しました。もっとも最初は、爆弾を落とすためではなく敵軍の偵察、それから砲兵が大砲を発射するその目標の照準を誘導する弾道観測のようなものに使われていた。あるいは、陸軍が進む道案内のような役割であったのですが、空中で両軍の偵察機同士が行き合ううちにピストルや小銃の応酬が始まり、最初の空中戦ということになります。また、弾道を観測して報告するより、自分で爆弾を持って行って落とした方が手っ取り早い。確かにその通りで、そういうことに気づいて相手の軍隊を攻撃する爆撃機を戦場に持ち込むようになります。

 第1次大戦の中で航空機はさまざまな用途に使われますが、なかでも、「砲兵、空に舞い上がる」と形容されるように、爆弾を積んだ飛行機が戦場に登場するようになって、同時にその航続力、大砲よりはるかに長い射程と爆弾威力をもって、相手の軍隊のみならず軍隊後方にある政治中枢、都市を狙うというような思想が芽生えてきました。

 実際、第1次世界大戦の中で、パリ爆撃、ロンドン爆撃などという小規模の爆撃が行われています。飛行機だけではなくツェッペリンという飛行船による爆撃も行われました。ですから、正確に言いますと都市爆撃は、第1次世界大戦の中におけるパリ・ロンドン爆撃に発するという言い方が出来ますが、この時にはまだ戦略爆撃というような思想的な、あるいは作戦目的は持っておりません。また、組織的でもありませんでした。

 第1次大戦の終わった後、1920年代に入って、戦争の理論家たちが航空機を未来の兵器として戦略的に使うことを主張し始めます。イタリアのジュリオ・ドゥーエ、アメリカのビリー・ミッチェル、イギリスのトレンチャードなどという人たちが有名ですけど、「制空権理論」、あるいは「航空至上主義」というふうに言われるような、航空力を未来の戦力として重視する。また、航空機による戦力は相手の軍隊だけではなしに産業基盤、輸送基盤、さらには政治基盤を破壊する。戦場の後方にある都市、戦争を継続する基盤を壊す。インフラ破壊に使う。そうすることによって戦争を勝利に導く。さらに進んで、戦争の人的な基盤である敵国国民に恐怖をうえつける。住民を恐怖におとしいれて戦争継続意欲をくじくというような考えが出てきます。

 エアパワーの信奉者たちは、冷酷な口調でそのことを予言します。ドゥーエの1節に「鳥を撃つだけでは十分ではない。鳥かごが残っている。」という言葉があります。「鳥かご」というのが、後方の戦争推進基盤であるわけで、そこには産業もありましょうし人的基盤もあるわけでしょう。こういうふうに第1次大戦の後、戦争の新しいあり方が航空機の登場とその運用思想の中から芽生えてきて、予言者たちによって未来を占われ、それを最初に実行したのが第1次大戦で敗北し軍備制限を受け厳しい監視を受けていたドイツ、そのドイツで政権を獲得したヒトラーのナチスなのです。

 ナチスは、陸軍と海軍において大変厳しい数量を限定された軍備制限を受け入れましたが、空軍に関しては、当時は空軍というものがそもそもそれほどはっきりしたものとしてありませんでしたから、制限が無かったのです。そこに着目して、彼は空軍を育成するわけです。

 1936年スペインでフランコ将軍の反乱が起こります。選挙で勝利した政権に対し右派のフランコ将軍が軍を率いて政権を打倒する戦いを行う。それに対し政権側は、国際的に呼びかけて国際義勇軍が組織され、ヘミングウェイが参加する。ジョージ・オーウェルが参加する。在米日本人で、ジャック・白井という人が参加するという大変いろんなドラマが生まれた戦争が始まるわけですが、このフランコ将軍の反政府軍にナチスは生まれたばかりの、そして実験期にある航空機、空軍を提供します。何よりもチャンス。1つはヒトラーの右翼とフランコの右翼という思想的な親近感はあったでしょうけど、それ以上に新しく生まれた航空機を実験するまたとない場と状況を得たということでしょう。

 1937年4月のことですが、バスク地方の中心都市ゲルニカ、市のたつ賑わいの日の午後、ナチス空軍の部隊に襲われます。初めての都市そのものを対象とした無差別の爆撃であった。同時に、焼夷弾という、破壊するだけでなしに物を燃やして被害を拡大するという目的を持つ対人砲弾が使われました。破壊爆弾も使われましたが、焼夷弾が使われ、また機銃掃射が行われた。そうした航空機50数機を使った爆撃が1937年4月26日、ゲルニカに対して行われたわけです。このニュースをパリで聞いたパブロ・ピカソ。彼は共和派ですから、当然、反フランコであったわけです。フランコの軍隊がゲルニカの街を無差別爆撃したというニュースに彼は直ちにキャンバスに向かって製作を開始して、その年に開かれたパリの万国博に「ゲルニカ」と呼ばれる巨大な壁画を描きます。そのことによって、私たちはゲルニカ悲劇を不滅のものとして、今、知ることが出来るわけです。

 当のドイツは、フランコ将軍の側も同様ですが、この事を一切明らかにしませんでした。空からの爆撃でゲルニカが壊滅した、航空機による無差別爆撃が行われた、ということを一切秘密にし、あれは共和派が自ら街に火を放ったのだ、というような宣伝を行います。ドイツ政府が正式にゲルニカの事実を認め、謝罪したのはゲルニカから60年経った1996年のことです。ヘルツォーク大統領がゲルニカの市長に書簡を送り、あの爆撃がドイツ側の行為であった事実を認め、謝罪することを明確に申し述べました。これに対し、ゲルニカの市長は、この書簡は長い間待ち望まれたものであった。この謝罪を受け入れるという返事を出して、ゲルニカ論争は一応決着がついたわけです。

 ゲルニカ爆撃は1937年、昭和12年のことです。ですから、航空機による都市爆撃の歴史の冒頭には、ほとんど間違いなくゲルニカ爆撃が入ってきます。ピカソによって、さらにそれは有名になりました。ただ、戦略爆撃ないし国民の戦争意欲を破壊するという新たな手法の戦争としての例から見ますと、ゲルニカは1日1回2波の攻撃のみでした。死者は、長い間論争が続いて分かりませんでしたが、今のところ1千6百数十人というところで、歴史家の評価は一致しているようです。空からの爆撃で1日に1600人もの人間が死ぬということは、当時においては脅威、大変大きな衝撃であったわけです。それは、ピカソのあの「ゲルニカ」が、その衝撃によって触発され描かれたという一事が何より物語っていると思います。

 日本の重慶爆撃はその翌年に始まり、更にその翌年にかけて、その数をあっという間に倍にしてしまう。3000人、4000人という死者が、1日の爆撃で出るという規模に持ち上げていきます。同時に、ゲルニカは1日でしたが、日本の重慶爆撃はそうではなくて、相手が参ったというまで、降参したと言わせるまで延々と続く。そのために、市民を、都市そのものを破壊するという意味で、ゲルニカをさらに上回る、ゲルニカとは次元の違う攻撃形態であることがお分かりになっていただけるだろうと思います。

 日本軍における「空の戦争」への流れ

 重慶爆撃に入っていく前に、そのようなゲルニカの前史を見た後、日本軍における空の戦争について少し見ていきます。日本は、第1次大戦では連合国の側に立ってドイツに対して宣戦布告しましたので、ドイツの東洋権益、中国にある青島の軍港及び租界に対し攻撃を加えました。また、ミクロネシアのドイツ領南洋群島に対しても艦隊を派遣し軍事行動を起こしました。そのドイツ領の青島の要塞を攻撃する時に日本軍の水上機が出動しています。日本軍の空の戦争における最初の例は、この第1次世界大戦時の青島爆撃、ドイツ軍要塞及び在港軍艦に対して水上機が行った攻撃が挙げられます。軍事目標が要塞と軍艦ですから、伝統的な戦争の手法を立体的に行ったということであるでしょう。

 しかし、その後1931年、満州事変と呼ばれる中国東北における軍事行動が行われます。この中で、錦州爆撃という航空機による都市爆撃が行われております。これもあまり知られていませんが、空の戦争史を調べていきますと錦州爆撃はかなり大事なものです。第1次大戦以降初めて行われた都市爆撃。ゲルニカより6年も前です。遼寧省・錦州に対して爆撃が行われました。

 ゲルニカのように騒がれないのは、それほど組織だった大規模なものではなかったということです。ただ、この錦州爆撃を行ったのは、日本の関東軍、陸軍です。関東軍参謀・石原莞爾が発案し、石原莞爾が自ら航空機に乗り込んで、錦州上空に進出し、そこで爆弾を落とした。彼自身、極東国際軍事裁判所、いわゆる東京裁判で宣誓供述書を残しています。

 たしかに1931年の日本の、それも陸軍、関東軍が持っている航空戦力はそんなに大したものではありませんでしたから、ぶん取ったロシア製兵器、中国機を使って、それに航空爆弾がありませんから、陸軍の爆弾を使って、それを真田紐で飛行機の外に吊るして錦州上空でナイフで切って落としてというようなことが石原本人の談として残っています。

 ですから、もちろん、照準なんてのはなく見当で落としたわけです。それでも死者が出ています。満州事変は、錦州爆撃を含めて国際的な非難にさらされましたので国際連盟から調査団が入りました。リットン調査団と申します。リットン調査団の調査報告の中にちゃんと錦州爆撃が出てきます。もちろん、石原莞爾中佐は、これは軍事目標、張学良の司令部を狙ったのだというふうに言いましたし、実際その意図であったわけで、意図として無差別爆撃があったわけではないのですが、何しろ真田紐にぶら下げた爆弾ですから、そんな命中するわけがありません。市街地、大学、駅(停車場)に命中し、人が死んだということが、リットン報告書に記されています。

 したがって、ゲルニカより早く日本は都市爆撃に手をそめたという言い方をしても、あながち不正確ではない。事実においてはそういうふうに言えます。ただ、意図的な都市爆撃、人を恐怖におとしいれる目的を持つ都市爆撃は、ゲルニカを待たなければならないわけです。

 しかし、錦州の翌年、いわゆる満州事変は上海に飛び火して、第1次上海事変と呼ばれる上海を舞台にする戦闘が始まります。日本は事変と呼び、戦争とは呼びませんでした。警察力で鎮圧することが困難な事態であるので軍が出動する。しかし、宣戦布告を伴っていないが故に、これは開戦に関する条約、ハーグ条約に言う戦争ではない。この状態は、1941年12月8日まで続く。日本がアメリカとイギリスに宣戦布告をして太平洋戦争が始まった時に、閣議で支那事変を含めて大東亜戦争と呼称す、というふうに言いましたので、1941年12月8日にこれらの事変は公的に戦争になります。

 しかし、それまでは公的には戦争ではなくて事変なのです。事変の名のもとに、実際の戦争を遥かに上回る戦力の投入が行われます。この上海事変によっても上海が爆撃されました。この時には、海軍が出てきます。航空母艦から海軍の爆撃機が出て行き上海を爆撃します。日本軍の航空史で初めて撃墜されて戦死者が出たのも、この上海事変です。同時に、海軍陸戦隊、および陸軍が上海を占拠する。それを空から援護するという作戦にあたるわけです。

 この2つの空からの爆撃。錦州爆撃と上海爆撃に端を発し、日本の中国に対する爆撃は1937年の7月7日、日中戦争が公然と開始され、全面的な戦争になっていく中で都市爆撃として、よりはっきり、より大規模に展開されていきます。これに関しても、当時の海軍省の報告、或いは戦史叢書に記載された史料などで、かなり精密に位置付けることが出来ます。けれども、上海に発し揚子江をさかのぼりながら、西へ西へと中国奥地へと入っていく陸軍の行動。それに対し、空から援護するというのが、この時期の、日中戦争初期の航空機運用の基本的なあり方でした。都市爆撃も行われますが、それは占領する都市に対して、そこの抵抗力をあらかじめ奪っておくということを目的としたような爆撃でした。南京がそうですし、広東、武漢といった所に容赦ない爆撃が加えられた事はご承知の通りです。

 しかし、それらは基本的に占領の先ぶれというものでした。まず叩いて抵抗力を弱めておいて陸軍が突入する。ファルージャ作戦がまさにそうです。昨年5月でした。まず四方を封鎖しておいて、徹底的な空爆が加えられました。次いで海兵隊の突入。残虐極まりない無差別的な殺戮というふうに推移していきました。南京的な空軍力使用の手法でした。

 陸軍の行動と共同した空軍力の運用が、日中戦争が始まった1937年、ゲルニカの直後から、より大規模な形で続いていくわけです。そうしたことで日本軍は中国のナショナリズム、中国の交戦意思を屈服させることが出来ると思っていた。

 南京を落とせば、首都が占領されたのだから降参するだろう、抵抗を止めるだろう、と思っていた。しかし、そうはならない。南京が落ちると蒋介石政権は重慶に首都を移すことを発表し、そこに移るまで武漢にたてこもって交戦を継続することを国民に呼びかけます。蒋介石政権の下で共産党との抗日統一戦線が成立していて、南京が落ちても抗日政権は抵抗を止める意思を見せない。

 武漢に集結して、折から進行していたスペイン市民戦争に呼応しながら、武漢を東方のマドリッドにという言い方で抵抗を呼びかけます。そこでしょうがないから、武漢作戦、武漢攻略が行われます。ここでも武漢に対する大規模な空からの爆撃が行われています。これも基本的に陸軍が進行していく、それを空から援護するというタイプのものでした。それ自体、そこで生じた都市住民への無差別的な被害に関しては国際条約から判断しても問題があるわけです。

 しかし、都市の軍事目標に対する空からの爆撃に関し、国際法は軍事目標を攻撃することによって軍事的な利益が得られると判断した場合、それは適法であると述べています。軍事目標に限定しているわけです。そして、それによって起こりうる民間の被害は当然考えられるわけですが、それは軍事的な利益が大変高いかどうかによって判断されるという。本当に重大な軍事目標があれば、それによって誤爆があってもやむをえないという書き方をしています。

 ハーグの空戦法規、正式な条約にはなりませんでしたから正式には空戦法規案ですが、各国ともこの案を尊重することを表明しましたので、一応の拘束力を持つものというふうに見なされます。日本政府もこれは案であるが尊重するという態度を表明していますので、ハーグの空戦規則、軍事目標主義、空からの爆撃は軍事目標に限定されるということは、日本政府の方針でもあったわけです。

 したがって、南京でも武漢でも軍事目標に限定した命令通達が出されております。段々、それが雑になってきます。けれども、一応軍事目標主義に、形式的には従っていました。

 日中全面戦争と「重慶戦略爆撃」への飛躍

 ところが、局面が変わります。南京が落ちる、しかし蒋介石政権は参らない。武漢を落とした。それでも抵抗を止めない。重慶に首都を移しました。蒋介石を最高指導者とする国共連合政権は、四川省重慶を戦時首都にして、そこから全民交戦、全民衆による徹底抗戦を呼びかけます。ならば何としてもここを潰さなければならない。南京を落としたように、武漢を落としたように。

 

 pdfへ (中国全土の地図)  (前田哲男『新訂版重慶爆撃の思想』凱風社74頁より)

 

 しかし、重慶には簡単に落とせない明白な理由がありました。それは、重慶があまりにも遠くにありすぎるということです。そこに至るには地形上、地理上の困難がありすぎる。武漢からもう少し先、湖北省の宜昌までは陸軍も何とか行けます。しかし武漢を出て北上しますと、まず巫山山脈という山並みがあります。それに続いて大巴山脈という山並みがあります。両方とも1000メートルから3000メートル級の山々が、ずっと続いていきます。陸軍が進撃していくということは不可能なのです。海軍の場合も揚子江の川幅は1キロぐらいですから、3000トン級、5000トン級の船が宜昌までなら何とか行ける。しかし、宜昌から先は有名な長江三峡と呼ばれる急流地帯で、川幅は極端に細くなり、浅くなり、川の中に岩が盛り上がって、とても大型船の航行に耐えるような状態ではない。

 したがって、海軍作戦は出来ない。陸軍も海軍も武漢、よくて宜昌までしか行けない。重慶はそこから先にまだ500キロの所にある。けれども、それを落とさなければならない。そこにいる蒋介石に参った、降参だと言わせなければ、この戦争、事変は終わらない。そこで、航空機のみをもって敵国政権を爆破する、都市そのものを破壊して戦争継続意欲を喪失せしめるという、戦争史上初めて登場した航空戦力のみによる都市攻略が浮上してくるわけです。

  そのような困難な地理的条件、しかし、そこを屈服させない限り戦争が終わらないという日本側の焦りが、戦争史上初めて、都市そのものを爆撃対象にして、相手に屈服を強いる作戦を浮上させることになります。

 重慶「戦政略爆撃」の特徴と重慶爆撃による住民被害

 重慶爆撃は、正確には1938年2月から始まって、1943年8月まで行われます。ただし、1938年2月の爆撃は海軍機によって行われたのですが、これは南京から行われています。そして、中国側の資料にはこの爆撃の成果が、私が調べた限りでは出てこなかったので、おそらくどこか山の中か、川の中にでも爆弾を落として戻ってきたのでしょう。南京から重慶というのは当時の航続距離から見るとギリギリ精一杯のところです。

 実際、重慶市民が、重慶大爆撃という言葉で呼ぶ日々は、1939年5月に始まり、41年8月に終わる期間です。2年3ヶ月ぐらいの間。ただ、39年1月から陸軍機による爆撃が断続的に始まっていますので2年半という数え方が妥当かと思います。

 このあたり、すなわち攻撃の開始と終結、また集中した時期の明確化と、もうひとつ、攻撃を受けた地域の定義。つまり重慶爆撃とは何処に対する爆撃を言うのか(市内のみか、郊外も含めるか)というようなことも検討を要します。たとえば今度の裁判にも楽山という重慶市ではない所の人も入っています。これから入ってくる原告の中には、四川省の成都の人もいるかもしれません。これらは重慶市ではありませんが、広い意味で「重慶大爆撃」に取り入れていいのではないか、というような点です。この場合、日本軍が作戦名称に用いた「奥地爆撃」(重慶を含む四川省各地)で説明すると、無理なく定義づけられると思います。

 当時の公文書に明らかですが、日本の重慶爆撃は、戦政略爆撃という名称と共に奥地爆撃という、もう1つの名称を持っています。奥地と言う場合には、重慶、成都、蘭州、楽山といった所を全部含んでいるわけです。これはいわゆる蒋介石を支援する援蒋ルート。蘭州は、ソ連から物資が入ってくる要所でした。だから蘭州は戦政略爆撃の対象になりました。昆明は、雲南ルートと言って南からのイギリス、アメリカからの支援ルートでした。後で立派な道路が出来ますが、当初は雲南、昆明経由で入ってきたのです。そうしたものを破壊するために奥地爆撃というふうに称しました。

 とはいえ重慶爆撃の「重慶」は、当時の状況、そしてまた今、大重慶市の中心部になっている、そして日本軍機が一生懸命爆撃した「川の半島」周辺に限定していいと思います。嘉陵江が北側に、揚子江が南側にあります。本当は、揚子江は長江の下流の部分名称ですから、揚子江と呼ぶのが適当であるかどうか分かりませんが、揚子江と嘉陵江の合流点が、旧重慶の城郭、お城があったところです。市中区と言います。嘉陵江の北を江北区と言います。揚子江の南側を南岸区と言います。この3つ、江北区と南岸区の奥にもう少し都市がありますが、爆撃の被害は市中区が1番大きいです。9・3平方キロです。9・3平方キロというと台東区とほぼ同じか、やや小さいくらいです。日本軍の重慶爆撃もほとんどはこの台東区と同じくらいの市中区を中心に、そして江北区、南岸区に集中していました。

 

 pdfへ (重慶市街地図へ)

 

 武漢が日本軍の海軍航空隊の、陸軍も一部使いましたが、発進基地でした。北の方に運城というのがあります。これが陸軍航空隊の発進基地です。もう1つ、孝感という飛行場があって、その3ヶ所から出たのですが、主力は武漢です。

 武漢のW基地、秘匿名称のWで呼ばれていましたが、W基地に海軍97式陸上攻撃機、普通、中攻という略称されますが、中攻を130機ほど常駐させていました。当時130機の爆撃機を1つの基地に集結させることは世界最大です。ただ、これも5年ぐらい経つとマリアナに300機のB29がそろうわけですから、ごく短い間の世界記録保持でありますが、重慶にそれだけの爆撃機、陸軍の爆撃機と合わせると最盛期には200機を超す爆撃機が武漢を中心に配備されていました。

 ここから武漢−重慶間が長江の流域距離でいきますと1200キロぐらいありますが、直線距離だと780キロです。中攻は5000キロ以上の航続距離を持っていますから十分です。中攻は800キロの爆弾搭載能力を持ちます。B29は4トンですから、これも数年後にはケタ外れの搭載量になりますが、当時としては爆弾搭載量の世界1級というふうに言っていいでしょう。800キロとして100機としますと80トンの爆弾が積まれるわけです。破壊用の爆弾、焼夷爆弾、さまざまです。戦艦の主砲、これ1発で800キロあるのですが、戦艦の主砲を航空爆弾に改造した800キロ爆弾が投下されたこともありました。また、焼夷爆弾が採用されたこともありました。さらに、爆撃の終わった後、国民党の要人が空襲の被害地を視察するという情報を聞いて、不発弾に見せかけて後で爆発するX信管という時限信管が考案されて、2時間、3時間後に爆発するというようなやり方がなされました。

 ほとんどの航空機が武漢を発して重慶に爆撃に向かったと言っていいでしょう。重慶定期とか重慶日課手入れなどというパイロットの言葉が残されています。そうした作戦に戦政略爆撃という公式名称が与えられました。今、戦略爆撃というふうに言いますが、日本の場合は政治がついています。1930年代にこういう戦略思想が軍によって打ち出された。

 最終的には大日本陸軍命令、天皇によって発せられる最高命令である「大陸命」(海軍の場合「大海令」)と言いますが、大陸命の中に出てきます。この大陸命を受けて、「大陸指」という大日本陸軍指示というか指令というか、参謀総長が天皇の大陸命を承って部隊に伝えるという形を取る大陸指(海軍の場合「大海指」)の中で、より精密な陸海軍中央協定という協定になって表れます。つまり、陸軍航空隊と海軍航空隊が共同してやるわけです。陸軍は何度も言いますように地上軍を持っていますから、地上軍の援護に航空隊の勢力をかなり割かなければならない。その点、海軍は地上にいっさい戦線を持ちませんから100%都市爆撃、戦略爆撃が出来るわけです。実際そうやったわけです。重慶爆撃が海軍が主体になった理由は、陸軍よりたくさん航空機を持っていたという理由も若干ありますが、それ以上に戦線を持たなかった。だから、重慶爆撃に全力をかたむけることができたということです。

 戦政略爆撃の特徴をそれまでの日中戦争のやり方と比べてみますと、まず地上軍が重慶に侵攻する作戦計画は存在しませんでした。したがって、占領するための爆撃という必然的つながりもなかった。純粋に航空戦力のみをもって攻撃を行うという、目的の簡明性と言いますか、単純性が第1の特徴です。第2に、軍事目標に限定せず都市そのものを爆撃対象とする。さらに効果を拡大するために、焼夷兵器を多用する。そのことによって住民に恐怖を与え蒋介石政権に対する厭戦、反戦気運を盛り上げる。こうしたことが特徴だと思います。

 ハーグ空戦規則案は軍事目標に限るとし、場合によって誤爆が出ることがあっても許されるという条項を含んでいました。第24条第2項なのですが、同時に第24条第3項は、陸軍の作戦と連動しない都市爆撃は禁止すると明確に言っています。そこを読みますと、「陸上軍隊の作戦行動の直近地域にあらざる都市、町村、住宅、または建物の爆撃は、これを禁止する」。つまり、空軍力だけで都市を爆撃するというようなことは、たとえ目標が軍事目標であっても、やってはならない。空爆の許容限度はあくまで陸軍進攻作戦と連動した、その直近地域にかぎるものであるということだったのです。重慶爆撃の国際法違反は、このハーグ空戦規則案の中からも間違いなく指摘できる。

 戦史に明らかな通り、重慶占領を目的とした軍隊は、近くにおりませんでしたし、作戦計画そのものも立てられたことがありません。重慶は、純粋に空軍力だけで攻撃されました。それが、1939年の5・3、5・4空襲。ゲルニカの2年後ですが、二日間の爆撃で約5000人の重慶市民が亡くなっています。ゲルニカ爆撃は1600人ですから、大変な数であるわけです。

 翌1940年の101号作戦。1941年の102号作戦。これらは5月に始まって10月に終わるという長い期間、晴天の日は連日、晴れた日は日中、薄暮、夜間というふうに1日中、可能な限り爆撃するというようなことを行っています。死傷者については中国側の調査でも説が9つあり、私の『戦略爆撃の思想』という本の中では、調査したのは1985年のことでしたので、その時に1番用いられていた数を引用しました。今ではもっと多くなっています。それは1つは、重慶周辺を含んだ犠牲者の数を含めると当然そうなるわけです。また、その後、発掘された資料による数字の補正もあるでしょう。

 なぜ、日本人は忘れていたのか? 過去を忘却した理由 

 以上が、重慶爆撃の特徴、被害、そしてその思想であるわけですが、我々はそれを全く知ろうとしなかった。南京虐殺は知っていました。それは、1つは東京裁判で裁かれたせいであるわけですが、重慶爆撃は東京裁判で訴因にあげられませんでした。

 多分、あげれば直ちに東京爆撃はなんだ。神戸空襲はどうだというふうに反論されるものだから、それを恐れたアメリカ側の心のやましさから重慶爆撃は起訴訴因から外されたのだと思います。

 しかし、そのことによって日本人のほとんどが、その事実すら知らずに、我々こそ空襲の被害者だった、加害者になったことなどないと思い込んでしまった。今に至ってもそう思い込んで、空襲だったら私たちの方がひどかったと言ってはばからない、このメンタリティーが生まれてきたのだと思います。

 加えて、絶後の記憶とも言うべきヒロシマ・ナガサキの経験があり、その悲惨さは冷戦の間、全人類が共有すべきこと、人類絶滅の恐怖のメッセージとして発信されていましたから、我々は「広島から始まった」絶滅の脅威に関しては大変敏感だし大切にします。それは大切にすべきことではあるのですが、同時に「広島までの道」があったことも知っておく必要があると思います。

 ドイツは、先ほども言いましたように、清算しました。一方、そのドイツでは、ベルリン、ハンブルク、ドレスデンなどがよく知られていますが、それら都市に爆弾の雨を降らせたイギリス国内でも大変な論争がなされ、昨年の秋にドレスデンで、聖母教会というとても有名な教会の完全な復元作業が行われましたが、そこの塔の1番上に飾る十字架はイギリスのNGOが、イギリスの市民から集めた浄財で作られ、その竣工式にはケント公夫妻という皇族が出席しました。公式な謝罪とは言いかねますが象徴的な謝罪行為とは言えるでしょう。ドイツもイギリスもそういうことを行っている。

 それにも関わらず、我々はまだ何もしていない。そうしたことも裁判の中で明らかにしていかなければならないだろうと思います。

 おわりに:重慶の思想は、いまも終わっていない

 さらに繰り返しますけど、重慶の思想がまだ終わっていない、今もまだアメリカの地域戦争の中で使われているのだということをきちんと発信する。そのために横須賀や沖縄が使われている我々自身の問題としても考えてみる。そういう多面性を持つ問題として重慶爆撃があるのだというふうに私は考えます。