王群生氏のメッセージ

日本の8.6「広島大行動」に出席する際


中国・重慶訪問団 団長
作家 王群生

 今日、私はこうして「8・6広島大行動」の厳粛な演壇に立ち、私の心からの主張を述べさせて頂きます。その前に、今大会の重慶訪問団団長として、日本の友人達に我々訪問団の構成員を紹介させて頂きます。
 重慶訪問団は以下の者で構成しております。私は王群生と申します。訪問団団長、国家一級作家、重慶市作家協会の副主席、重慶市文史館副館長、「重慶大爆撃」の被害者であり、研究者でもあります。訪問団の顧問である王孝詢さんは、西南師範大学教授、修士院生の指導教官、「重慶大爆撃」研究センター主任の研究者です。高鍵文さんは、「重慶大爆撃」の被害者、六・五大隧道虐殺事件(較場口トンネル虐殺事件)の生存者です。劉宗平さんは訪問団の団員(重慶市文史館の館員)です。
 我々は重慶市民及び中国人民の侵略戦争に対する怒りと批判を、また重慶市民及び中国人民の世界平和に対する渇望と期待を、さらに重慶市民及び中国人民の広島市民並びに日本人民への平和の祝福を、一身に受けてこの地広島にやって参りました。
そして我々は、「戦争を二度と繰り返すことは許されない 8・6広島大行動」実行委員会代表の元国会議員栗原君子さんに感謝いたします。同時に一瀬敬一郎弁護士、吉田義久教授に感謝いたします。先生方の強い招請があったからこそ、我々重慶訪問団は日本に来て、戦争に反対する広島の市民たちと共に「戦争を二度と繰り返すことは許されない 8・6広島大行動」に参加し、平和を呼びかけることができます。この厳粛な演壇において、重慶市民の「平和宣言」を発表することは、我々平和を愛し、戦争に反対する重慶市民の長年の願いでした。皆さんのたゆまない努力の下で、今日、この願望がついに実現できました。
 栗原君子さんが「中国、重慶の市民友人達へ」の招請状の中で次のようにおっしゃっていました:
 「戦争を二度と繰り返すことは許されない。広島市民は57年前に、原子爆弾のために自分の親族、兄弟及び友達を失いました。幸い逃れた人たちでさえも放射能の影響で苦しんで生きています。しかし我々が反省しなければならないのは、広島に原子爆弾を投下される前に我々が中国、朝鮮半島のアジア人民に被害をあたえた史実です。我々はアジア人民を2000万、3000万人も殺害した後、我々日本人自身も原子爆弾投下による被害を受けました。軍人、軍人の家族、一般の市民を含めて310万人が死を余儀なくされたのです。日本人民はこの戦争を反省し、同じような過ちを決して二度と犯さないと誓います。」
 我々は栗原君子さんの意見に心から賛成いたします。日本軍国主義は「日清戦争」以来100年に渡って、何度も中国を侵略してきました。1931年に「9・18事変」を引き起こし、1937年に「7・7事変」を引き起こし、ついに中国に対する全面的な侵略戦争を引き起こしました。中国人民は総動員で、我々の血と肉で新しい長城を作り、全中国人民は敵愾心を抱いて抗日戦争を戦いました。
 我々の都市重慶を例としてあげます。1938年の初め、国民政府は重慶を抗戦時期の首都と定めました。その後、1938年2月から1943年8月までの6年間に、日本軍は一万機余りの爆撃機、戦闘機を出撃させて重慶を爆撃し、3万人近くの人を死傷させました。六・五大隧道虐殺事件を例にとると、わずか一回の爆撃で3000人近くの人が死亡しました。日本軍が戦略的な「重慶大爆撃」を行う目的は、中国人民の抗日意志を打ち砕いて、国民政府に降伏を強制することにありました。重慶に対し長期にわたって激しい爆撃が繰り返され、その攻撃は野蛮且つ血生臭いものでした。それにより重慶市民は疲労困憊しました。また、昼夜兼行で爆撃を行い、不意打ちの襲撃をしたり、爆弾、焼夷弾、毒ガス弾、細菌爆弾を使用したり、あらゆる卑劣な手段をとりました。その規模の大きさ、残酷さ、それによって生じる損失の大きさは、世界空襲史にも前例がありません。これは日本軍国主義が中国人民、重慶市民に対して血の債務を負ったことになります。
 私の父、王錫欽の日本での姓名は高橋景龍といい、中国系です。父は幼い頃に、独身主義を堅持している日本の高名な歯医者・高橋茂次の養子となり、養父と一緒に東京に来て生活し、就学しました。その後父は、東京歯科専門学校を卒業し、ある華僑の娘(私の母)と結婚しました。私は1935年9月に日本の東京で生まれ、私の日本での姓名は高橋子和といいます。1937年7月7日、抗日戦争が起こった後、両親は民族感情、そして愛国への思慕の情から、養父に別れを告げ、何年間も住んでいた日本を離れて、船で帰国しました。その後1938年に、重慶に定住しました。
 そのため、日本から帰ったばかりの幼い子供である私も、日本軍が首都重慶に対して行った爆撃の際には、例外なく爆撃、掃射の目標になりました。
 1939年の5月3日と5月4日は、重慶の歴史上最も血生臭い、痛ましい日です。日本空軍は建物が密集し、市民がたくさんいる重慶の中心部の市街地に対して、規模の大きい、絶え間ない爆撃を行いました。二つの川が合流するところの朝天門から、市の中心部までの2キロメートルにわたって、平素市民で賑わう地域は、恐ろしい火の海となりました。死亡した同胞や焼きつくされた都市は、幼い私の記憶に恐ろしい光景として焼き付きました。60年後の今でも、私は爆撃の光景をはっきりと覚えています。私達家族のあとを追うように、日本から重慶に飛んで来た侵略者たちは、罪のない重慶市民たちが血と涙を流している光景を、幼い私の目に焼き付けました。この時から私は、「戦争とは何か、侵略とは何か、正義とは何か、平和とは何か」を考え始めたのでした。菜園?にある私の重慶での最初の家は、この大きな爆撃で焼き払われてしまいました。
 日本侵略軍が重慶に対して6年間にも及ぶ爆撃を行ったため、私はいつも家族と一緒に重慶の繁華街あるいは南の岸の近郊で、日本軍機が投下する各種の爆弾に追い回されていました。この6年間、日本軍の爆撃のため、私の家と父の診療所は3回も火の海の中で廃墟になりました。最もはっきり覚えているのは医者である父と一緒に、1941年6月5日の六・五大隧道虐殺事件の現場に行った時に、自分の目で何千人もの遭難した同胞の死体の処理を見たことです。また、1943年、1944年の春と夏、日本軍が細菌爆弾を投下したため、重慶の市区と近郊に2回のコレラが流行し、数多くの市民の命が奪われました。両親の養女、つまり私の姉は、この人為的な疫病が流行する中で死んでいきました。
 この日本軍の連続爆撃が6年もの間続くうちに、私も幼い子供から小学生になりました。私たち小学生は、犬のように首に小さな掛け札をかけさせられました。その掛け札には姓名、学校、住所などが書いてありました。これは、もし私たちが行方不明になったとしても、身元を確認できるようにするためです。数年間の小学生生活は、教室で授業を受けるよりも、両親あるいは先生にしたがって、トンネルに入ったり、広い火の海と廃墟を通り抜けたりすることの方が多かったと言えます。それは、天真爛漫な子供が見るべきではない、血生臭い悪夢でした。しかし、それが日本の侵略者によってもたらされた少年時代の現実でした。それを今、平和な環境で暮らしている中国と日本の子供たちに教えることが、私の責務だと思っています。
 どんな悪夢でも目覚めれば朝をむかえます。あの悪夢からもう60年経ちました。その血生臭い往事は、確かに昔のこととなっています。しかし軍国主義の亡霊はいつまでもつきまとい、日本に軍国主義の魂を呼び戻そうとする右翼分子はいまだに存在します。だからこそ「重慶大爆撃」の被害者、生存者である私たちは、自らの記憶を思い起こし、広島市民並びに平和を愛し、戦争を反対する日本人民と共に歴史を考え、互いに励まし合っていきたいと望むのです。
 今日、「重慶大爆撃」の被害者、生存者、特に自ら「重慶大爆撃」を経験し、日本軍国主義の犯罪行為の目撃者である高鍵文さんと私は、今こうして「8・6広島大行動」に参加しております。私たちは当時の「重慶大爆撃」現場の記録映画、写真画集と歴史の資料を持ってきました。
 今年は中日が外交関係を結んでから30周年にあたる年であります。また、「7・7事変」という、日本軍国主義が全面的に中国に対する侵略戦争を引き起こす契機となった事件からは、65周年にあたる年でもあります。ここに我々は、日本軍国主義が中国、重慶に対して犯した犯罪を告発すると同時に、我々も侵略戦争で投下された原子爆弾によって、尊い命を奪われた何十万広島市民の魂に、深甚なる哀悼の意を表します。そして被害者、生存者及び親族、後代の人びとに、心から慰問の意を表します。
 また、我々は日本人民、アジア人民、世界の平和を愛する各国の人民とともに、小泉首相が靖国神社を参拝することについて、反対いたします。教科書を改ざんしたり、歴史を歪曲したり、軍国主義の魂を呼び戻すことに反対いたします。「有事法制」を制定して「戦争法」を実施することに反対いたします。日本人民を侵略戦争に参戦させることは許されません。
今日、我々はここ日本において、「8・6広島大行動」の演壇より、日本人民、世界人民に「重慶大爆撃」の血生臭い歴史の事実を伝え、同時に重慶市民及び中国人民が、世界平和を呼びかけ、平和を心から希求していることを発表します。 「前事を忘れざるは後事の師なり」という諺があります。我々は日本人民とともに行動して、平和を呼びかけていきたいと思います。中日人民は永遠に友好関係を築き、世界の平和を守り、軍国主義の復活に警戒をして、二度と戦争を引き起こすことは絶対に許しません。
 我々の美しい世界に、どこにでも愛があふれるようになり、平和の花が至るところに咲かんことを、私たちは心から祈っております。