8月6日、被爆61年目の広島に来られた、
 
重慶大爆撃受害者代表団が配布したリーフレット

日本軍の重慶大爆撃を告発する―重慶市民の思い―

                                         重慶大爆撃被害対日賠償請求訴訟原告 趙 茂蓉

左が趙茂蓉さん、右が張正聖さん

 

 

1 私は、父趙慶雲と母文本玉の間に生まれた3番目の子供でした。生まれた日は、新暦の1928年8月24日のことです。年上の兄弟は兄1人と姉1人で、私の下には妹が1人いました。

  家が貧しかったので、私は、9歳の時から紡績工場で働いていました。

 

2 私は、1941年8月23日、重慶市内で、日本軍の飛行機が落とした爆弾で重傷を負いました。

  当時、私は13歳でした。その日、私は紡績工場で働いていましたが、突然、空襲警報が鳴りました。私は、工場の同僚の王成芳さんや張昌模さんなど一緒に、空襲を避けるため、磁器口百岩洞という防空洞に向かって走りました。

  丁度、百岩洞の近くに着いたころ、日本軍の飛行機が爆撃を始めました。私たちが目指していた防空洞は、すでに避難してきた人で一杯になっていました。それに私はまだ13歳で力も弱く、到底、防空洞の中に入ることはできませんでした。

  こうして私は、防空洞の出入り口のところに留まらざるを得ませんでした。そこで日本軍が投下した爆弾の破片が四方に飛び散った際、その破片の一つが私の右頬に深く突き刺さりました。そのとき私は、目の前でもうもうと煙や霧が立ちこめ、天も地もまっ暗になったように感じました。

  私は、夢中で自分の手荷物をつかんで、押し合う人の群れに混じって走りました。

すると突然、誰かが私の幼名(趙家秀)を呼んで叫んだのが聞こえました。

  「趙家秀、どうしてお前は人の頭なんかぶら提げているんだい?」

  そう言われて、私は、驚いて手でつかんでいた「手荷物」を見ました。そして自分がつかんでいた物を見た瞬間、私は、「頭だ!」と叫び、そのまま気絶してしまいました。

 

3 私は、後で家族から聞いたのですが、空襲が終わった後、家族はあちこち私を捜したそうです。夕方になって、やっと兄が死体の折り重なっている山の中から私を見つけだしたそうです。

  兄は、滑竿という担架を探してきて、その担架に私を乗せて、歌楽山にある寛人医院まで、ゆっくりゆっくりと私を担いで運んでくれました。

  病院の医師は、「あなたの妹は日本軍の爆撃で負傷したのだから、地元の保甲長から日本軍の爆撃で負傷した旨の証明をもらって来れば、病院側は治療費や入院料などは免除されますよ」と言ってくれました。

  そこで兄が当時の保長呉慶生から証明書をもらってきてくれました。その証明書のおかげで、私は、ようやく病院に入院できるようになりました。

  私は、数ヶ月間、入院していました。その入院期間中、大きな傷を負った顔の右側の手術を受け続けました。治療を受けている間も頬の部分が腐ってきて蛆虫が湧きだし、当初の半月ほどは水も飲めない状態でした。まだ13歳だった私にとって、顔の傷による苦しみは耐え難いものでした。

 

4 私が負傷した数日後、再び日本の飛行機が重慶に飛来し、爆弾を投下しました。こうして重慶の一般市民は、再び空襲の被害を受けました。

  この日の空襲で、私の家も爆撃を受けて全壊し、火事になって全部焼失してしまいました。私の家族は帰る家もなくなり、街頭で野宿するしかありませんでした。

 私は、数ヶ月間、入院し、顔の傷の状態が幾分よくなって退院しました。

  火事で家が無くなっていたので、私は、他人の家に一時的に住まわせてもらうなど、あちこちを流離うような生活を送らざるを得ませんでした。

 このように住まいが無くなったことで生活の環境は一変してしまいました。

 

5 私の場合、空襲で右頬の部分に大きな傷を受けましたが、この顔の傷は私の生活と精神に大きな障害をもたらしました。

 顔の包帯を外して、初めて顔の右頬の大きな傷跡を見たとき、私は強いショックを受けました。何日も何日も泣いたそのときのことは今でも忘れることはできません。

 私は、仕事ができるほど回復すると、再び工場で働くようになったのですが、職場の同僚から、顔の傷の事を言われる事がしばしばありました。例えば、同僚が私の事を「半面美人」などとからかうことがありました。このようなとき、私は大変精神的に苦しい思いをしました。

  このような嫌な思いを何遍も経験するうちに、私は、何時の頃からか、自然と顔の傷の部分を自分の髪の毛で隠すことが癖になってしまいました。残念ながら性格の面でも暗い感じになったように思います。

 

6 空襲で受けた傷は、私の婚姻や家庭生活にも多大な苦痛をもたらしました。私は、空襲によって被った傷のために、しばしば他人から蔑視され、また侮辱を受けてきました。私だけでなく、私の子供までひどいいじめにあいました。

 さらに私は、顔の傷のほかに、空襲で聴覚機能も失いました。このため、私は、大きな声で話してもらわないと、人の話を聞き取ることができません。しかも常に頭痛がします。

 

7 爆撃から60年以上経ちました。日本軍国主義は、重慶に対して残虐な空襲を5年間以上も繰り返し敢行し、市民に甚大な被害を与えました。

  私自身も、爆撃以来現在まで、上に述べたような言葉では言い表せないほどの大変な苦しみを味わってきました。精神的な傷は肉体的な傷をはるかに越えるものでした。

  ところが、日本は、現在でも小泉首相をはじめ主要閣僚が靖国神社参拝を繰り返すなど、中国とアジア諸国に対する侵略戦争を全く反省していません。

  私は、このような日本政府の態度を絶対に許せません。

  今年の3月、私は、日本政府に対して空襲によって受けた被害に関して謝罪を求めると同時に私が受けた肉体的、精神的、経済的損害に対し賠償を求めるため、日本の裁判所に重慶大爆撃被害対日民間賠償請求訴訟を起こしました。

  この裁判は平和を実現するための闘いです。私たちの重慶裁判を支援して頂いている日本の友人の皆様に心から感謝します。

  平和を愛する日本の市民、学生、勤労者と力をあわせ、戦争に反対し、アジアと世界の恒久平和を実現しましょう。

  世界平和を愛する皆様へ

 弁護士・重慶市渝州中小企業法律服務センター主任 甘 暁静

 

 

 

 

 こんにちは。日本の平和集会に参加することができて、非常に光栄に思います。私は重慶市渝州中小企業法律服務センターの主任です。

  私どものセンターは、2004年7月7日、重慶大爆撃被害者の委任を受けて、世界の平和を維持し、日本政府に侵略戦争が一般国民にもたらした災難を反省させるという目的で、被害者たちの日本政府に対する賠償請求訴訟の準備活動を組織し始めました。

  この訴訟をもって、当時の戦争が被害者たちにどのような身体的・精神的な苦痛をもたらしたか、ということを世界にアピールし理解していただきたいと思っています。

  本日、ここで私どもが今までやってきました仕事に関して紹介させていただきたいと思います。

 

一、まず被害者たちのために中国の弁護士を組織したことです。重慶大爆撃の被害者たちはほとんどが当時の爆

撃によって学業を中断せざるを得ない羽目になりました。その関係で教育を受ける機会を奪われてしまい、それに加えて高齢者ということもあり、被害者自身による訴訟書類の作成はほぼ不可能になりました。それで、私ども

のセンターが約10名の弁護士をボランティアとして組織し、被害者のために書類を作成したり、証人・証言を集めたりしてきました。

 

二、次に「重慶大爆撃」という歴史事実を宣伝し、この訴訟の影響を広げようとしていることです。

 私どものセンターの協力の下で様々な宣伝活動が行われました。例えば、「五・三」〔重慶大爆撃の一つの記念日〕、「七・七」〔盧溝橋事変記念日〕、「九・三」〔重慶大爆撃の一つの記念日〕、「九・一八」〔満州事変記念日〕などの記念活動を行ったり、中国側弁護士や被害者たちを組織して重慶の大学で講演会を行ったり、大学生を含む若者に対してこの訴訟のボランティアとして参加するように呼び掛けたりしています。

 

三、さらに被害者たちに協力して様々な募金活動を行ったり、生活が非常に苦しい被害者を個別的に訪問したりしています。

 

四、また四川外語学院に対し、中国側弁護士が整理した被害者の陳述書類を翻訳し、その翻訳を日本側弁護士に送ってもらうということを依頼したりしています。

 私どもの仕事は非常に煩雑で難しいのですが、すべての参加者が非常に積極的に動いています。特にこの訴訟がすでに日本で提訴され、まもなく審理が始まるということを見て、私どもはすごく嬉しく感じ、鼓舞されて、やる気もより一層出てきました。もちろん、これはまだまだ長い道のりの第一歩だと私どもは認識しております。私どもは引き続き正々堂々と、そして理性にしたがってこの国際的な訴訟を推進し、それをもって世界平和を促進しようと思っております。

 そして、この場を借りて、土屋公献先生・一瀬敬一郎先生・萱野一樹先生をはじめとする日本人の方々のご協力とご支援に対して感謝の意を表したいと思います。彼らの献身的な活動があるからこそ、この裁判が順調に進められていると思います。この方々に対して敬意を表します。

 本日、皆様は、世界平和を推進し、蔓延しつつある戦争行為を抑止し、小泉内閣の反省を促すためにここに一堂に会していると思います。これは私どもが重慶大爆撃訴訟を推進する目的と完全に一致しています。この同じ理想と信念が私たちに同様な言葉をもたらしました。つまり、戦争に反対しともに平和を促進しましょうという言葉です。

 平和を愛するすべての人々が手を携えて、世界平和を推進するために絶え間なく努力しましょう。ありがとうございました。

 

8・6広島−8・9長崎 反原爆集会参加者の皆様へ

 重慶行政学院・重慶大学法学院教授、重慶市法学会常務理事 張 正徳 

一 歴史を直視することが重慶大爆撃を適切に裁く前提である

 重慶大爆撃の被害者40人が日本政府に対し謝罪と賠償を求める訴訟は、今年10月25日に東京地方裁判所で審理が開始される。この訴訟事件は如何に審理し、どのような判決が下されるか注目されている。我々は東京地裁が歴史を直視し、法律と人権を尊重し、歴史の事実に基づいて、中日両国の友好の為になる判決を待ち望む。

 適切に判決することの前提は歴史を直視することである。歴史を直視するには、歴史を反省し、歴史の真実を把握しなければならない。ヨーロッパでは、昨年ドイツが当時の反ファッショ陣営の国々とともに反ファッショ戦争勝利60周年の記念活動を行った。一方、アジアでは、日本政府のリーダーたちは、まだ歴史の事実を歪曲し、中国、韓国などのアジア人民の感情を無視し、靖国神社に参拝し、侵略の罪を認めていない。このような大きな格差を生じた原因は、歴史を直視し真実に直面することができるかどうかという点にある。

 従って、第二次世界大戦終戦61周年、広島、長崎の原爆被害61周年を記念する際、重慶大爆撃の被害を含む中日間の戦争遺留問題を、歴史の真実として直視し、冷静に、適切に解決することは、一つの重要な内容であると思われる。このようにして初めて、加害者と被害者、国と国は正義に基づいて理性的に交流することができるようになる。これは重慶大爆撃被害訴訟事件を解決する前提である。

 

二 損害賠償請求障害の原因は政治にある。

 重慶大爆撃被害を含む対日民間の損害賠償請求の真の障害は法律問題ではなく、政治の問題であり、日本がドイツのように侵略戦争に対して深刻に反省、懺悔しなかったからである。十数年来の中国、韓国、フィリピン等の国の被害者が日本政府を対象に起こした数十件の訴訟事件から見れば、日本側はほとんどが事実を認めながら損害賠償を認めなかったり、経済補償を行って謝罪しなかったり、「訴訟時効」、「国家無答責」、「中国政府はすでに戦争賠償請求権を放棄した」等の言い訳で原告の訴訟請求を却下したりしていた。多くの慰安婦が「賠償金」を受け取ることを拒否した理由は、日本政府が法的責任を認めないためである。数多くの被害者が日本政府に対して損害賠償請求した目的は、経済上の問題だけではなく、最も重要なのは、日本政府に侵略の歴史を認め、反省と謝罪を求めることにある。

 十数年来一連の対日民間賠償請求訴訟が敗訴したことと、罪を認めて謝罪をすれば「将来の賠償請求の種になる」という考えが日本ではまだ主流であることと日本の現在の政治状況などを考えて見れば、重慶大爆撃損害賠償訴訟は楽観できない。しかし、調査、証拠の収集、訴訟、宣伝と真相を明るみに出すことは続けなければならない。被害者が加害者に対して謝罪と賠償を求めるのは基本的な人権だからである。

 土屋公献弁護士はこう話した。「日本は実際の行動を踏み出し、被害者に対して謝罪し、罪を認めて初めてアジア人民と信頼関係を築き、国際社会に復帰し、日本の国民であることを誇りに感ずることができる。」

 日本の侵略戦争中の行為は人類、人権に反する犯罪行為であり、南京大虐殺、慰安婦、重慶大爆撃等は人権を踏みにじる行為である。人権を蔑んで、正義を蔑視する国は、「国際社会に光栄の地位を占める」という憲法の目標を実現することはできない。重慶大爆撃訴訟は勝訴であろうが敗訴であろうがそれが問題の終結ではない、最も根本的なのは日本が中国及びほかのアジアの国の被害者に対して罪を認め、謝罪、賠償することである。そうすれば日本は不名誉の過去と決別し、真の国際社会への復帰ができ、国際社会の一員として尊重される。歴史問題を解決するまで日本は信頼を得ることは難しいであろう。

 

三 正義に対して正しい姿勢が必要である。

 現在の中日関係は様々な問題を抱えている。その原因はいったいどこにあるのか。それは中国側が歴史問題にこだわったり、あるいはナショナリズムを持ったりするからではなく、日本政府のリーダーたちが歴史を直視することができず、真剣に歴史の教訓と経験を総括しなかったことにある。正義を拒み、人権を排斥し、時流に逆行する日本政府の行為はますます大きな圧力を受けるであろう。正義を主張することは人間の本性であり、人類の共有する見識である。正義を拒み、または正義に対して正しい態度を取らなければ、結局自分を孤立させるであろう。

 実際に、日本政府が謝罪しようが、賠償しようが、または罪を認めまいが、中国人民にとっての根本的な課題は、自らつとめ励んでやまず開拓開放し、自己の智慧と労働によって、堂々と世界に自立することである。そうすれば、日本の軍国主義が復活したとしても、我々をどうすることもできないであろう。しかし、いまや対抗することは時代の流れに沿わないのであり、正義と人権を尊重し互いに交流すべきである。

 我々は、経済大国・日本のリーダーたちが人権、いのち、平等、歴史を尊重し、正義に対して正しい姿勢をとることを望む。また東京地裁の裁判官に対して法を守り、様々な政治勢力からの圧力に屈服することなく、正義を主張し、日本国の平和憲法と一致する判決を下すことを望んでいる。

 

歴史を胸に平和を希求する

 一人の平和を愛する中国国民 邱 盛蘭

  「重慶大爆撃」は重慶史上もっとも悲惨な出来事で、全ての重慶市民が忘れられない歴史である。日本軍が中国国民の徹底抗戦という強い意志を崩壊させるために、1938年2月から1943年8月までの間、5年半という期間にわたって戦時首都である重慶に対して戦略爆撃を行い、重慶市民に計りきれない生命及び財産の損害を与えた。これがいわゆる「重慶大爆撃」である。この「重慶大爆撃」は世界戦争史上では初めて前線と後方、戦闘員と一般市民という境界線を無視した「無差別爆撃」であった。

 

  統計データによると、「重慶大爆撃」期間中の日本軍機による重慶に対する爆撃は218回にのぼり、延べ計9513機が出動した。これによって死亡した市民は1889人、負傷者は14100人、破壊された家屋も17608棟にのぼる。被害が一番大きかったとき、一日で死傷者数は5000人を超えていた。これは当時の空襲史上最大の惨案である。こうした日本軍による無差別爆撃に対して、重慶市民は様々な形で「反爆撃闘争」を続け、日本軍の「中国の徹底抗戦という意思を破壊させ、迅速に支那事変を終わらせる」という企てを粉砕した。この重慶市民の闘争は中国国民の不屈な抗戦姿勢の重要なシンボルになったのである。

 

  抗日戦争初期、日本帝国主義は自身の軍事力の強さを信じ込んで速戦即決という戦略を立て、3ヶ月内で中国を滅亡させ、さらに「北進政策」・「南進政策」を推進しようと考えていた。しかし、全面抗戦が始まってから、中国の戦場では正面と背後という二つの戦場が形成された。日本軍は武漢を占領した後も、綏遠・山西・陝西・河南・安徽・湖北・湖南・江西・江蘇・浙江・広東という約4000キロの正面戦場ラインで200師団以上の中国軍と対峙していた。国民政府は西南・西北地域を根拠地として抗戦を続けていた。それに、日本軍占領地域の後方には中国共産党が率いる八路軍と新四軍も広い範囲でゲリラ戦を展開し、抗日根拠地を開拓していた。こうした中国共産党軍の動きは日本軍による占領地域に対する統治を弱め、正面戦場とともに日本軍を挟み撃ちするという態勢をつくった。

 

  この状況下で日本軍が新しい侵略方針を作り、それと同時に軍事戦略に対しても調整したわけである。つまり、消耗を減少させるために戦争の規模と強度を制限し、強い軍事力を背景に政略と謀略工作を展開し、軍事活動も後方の抗日ゲリラ戦争に重点を置くようにした。日本軍国主義から見れば、「圧迫されている中国政府を放任しておくと、重大な禍根になるので、その崩壊を促進するように適宜に対応すべき」である、ということで、日本軍は、軍事活動の重点を後方戦場に向けると同時に、非軍事的な政略工作と軍事的な打撃という車の両輪を以って国民政府の徹底抗戦という意思をくじき、対日妥協をさせようとしていた。重慶に対する大爆撃はこういう軍事戦略の具体策なのである。

 

  侵略者が犯した罪は忘れるべきではないし、忘れられないことでもある。しかし、私たちは理性的な目で歴史、そして中日関係を見なければならない。平和と発展は現在の世界における最大のテーマになっている。私たちも中日両国の友好関係を末永く続けていきたいと思う。そうした関係は両国にともに利益をもたらすと確信している。

 

過去を忘れず、正義と平和を貫こう                                                 

 重慶大爆撃受害者代表団

 第二次世界大戦が終結してから、すでに61年が経ちます。戦争はすでに過去のものになったといえますが、戦争被害者にとっては「戦争」はいまだ続いているという現状にあります―――彼らの精神面、肉体面での苦痛はいまだ終わっていないからです。

 日本においては、帝国主義の思想とその勢力はいまだ過去のものになってはおりません。戦争の根源はいまだ消滅していないからです。その大きな原因は、歴史事実を真正面から受けとめていないことにあります。歴史は決して忘れてはならず、事実もまた否定してはならないのです。

 現在はまさに歴史の延長線上にあります。現在の問題を解析する上においては、必ず過去と未来、そして地域間関係を視野に入れた態度が必要となります。そうすることによって、ようやく世界が求めている平和の規律、重慶大爆撃と広島・長崎に投下された原子爆弾の悲惨な過去との関係を改めて認識することが出来るのです。私たちは、広島・長崎原子爆弾の被害から61年が過ぎたことを記憶にとどめ、歴史を見つめ、事実に向かい、冷静かつ平和の原則を堅持して、過去の加害者/被害者としての立場を理解しながら、日中間の問題を解決することがたいへん重要だと思うのです。そして重慶大爆撃の被害も含め残された戦争の問題を、すみやかに解決してもらいたいと思います。このようにして、ようやく根源から戦争と平和の原点を把握し、日中間の長期的な友好関係を堅固に築くことが出来るのだと、私たちは確信しております。

 

 日本政府は、中国とその他アジアの国々の被害者たちに謝罪し、遺憾の意を表し、賠償をすることが求められています。そうして不名誉な過去を洗い清め、国際社会の中に戻り、先進し、発達した国家として他の国々から尊重を受けることが出来るのです。

 

 正義を主張することは、人類に本質的に備わったものであります。また正義を拒否することは、自らを孤立させることになります。重慶大爆撃の被害者は、日本政府が良心に基づいて歴史問題を解決することを望みます。正義と人権尊重の高い理念を掲げて、互いに話し合い、理解し、そして経済大国となった日本が、人の生命を大切にし、人権を守り、平等を貫き通して、歴史を真摯に、正義をもって受けとめてくれることを望みます。

 東京地方裁判所の裁判官は、法治国家を維持するという大きな使命を背負い、福岡地裁判決が小泉首相の靖国参拝違憲を示したように、日本国平和憲法に則った責任ある判決をしてもらうことを心から願うのであります。